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扶桑(ふそう/ふさう)は、日本海軍の戦艦〔#達大正3年4月p.3『達第五十七號 呉海軍工廠ニ於テ建造ノ第三號戰艦ヲ扶桑ト命名セラル 大正三年三月二十八日 海軍大臣 男爵 斎藤實』〕〔#日本軍艦集2600年版p.17『-戰艦- 扶桑(ふさう) 基準排水量29,330噸、長さ192.03米、幅28.68米、平均吃水8.69米、速力22.5節、備砲36糎砲12門、15糎砲16門、12.7糎高角砲8門、魚雷發射管2門、起工明治45年3月11日、進水大正3年3月28日、竣工大正4年11月8日、建造所呉海軍工廠-姉妹艦に山城がある。』〕〔#ポケット海軍年鑑(1935)p.14『戰艦"扶桑 ふさう" 全要目 同型艦"山城 やましろ" 昭和8年に約3ヶ年を要して大改装を完成したこの扶桑ほど、づばぬけた近代化を示して世人をあつと云はせたものは世界中どこをたづねてもあるまい。改装直にその年の特別大演習に参加し、引續き昭和9年度昭和10年度と聯合艦隊の主軸をなしてゐるのに見て、この近代化は異彩を放つてゐる。竣工して初めて軍艦旗を翻へしたのは上に示す如く大正4年であるが、この偉容から云はしむれば寧ろ昭和8年竣工とでも云ふべきであらうか。戰艦山城はこの扶桑と同型の姉妹艦本年これも改装を完成して共に聯合艦隊の主力として活躍中である』〕。 扶桑型戦艦の1番艦〔#艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.1『艦艇類別等級表|軍艦|戰艦|扶桑型|扶桑、山城』〕。日本独自の設計による初の超弩級戦艦である。扶桑の由来は日本の古い異名の一つであり〔#幕末以降帝国軍艦写真と史実p.25『艦名考:東海中に在りと云ふ大なる神木、転じて東方日出づる處にある神仙国、即ち我が大日本国の異称とす。』〕、同名を頂く艦としては二代目となる〔「官房第714号 10.2.20 軍航扶桑由来の件」p.3〕(初代扶桑は1879年竣工の装甲フリゲート〔#幕末以降帝国軍艦写真と史実p.110〕)。 艦内神社は男山八幡宮(石清水八幡宮)および伊勢神宮〔#高松宮日記2巻170-171頁『十一月二十四日雨(中略)今日は午前、扶桑神社(昨年大神宮を合祀す もともとは男山八幡だつた)のおまつりあり。後武技試合ありしも喪中だから参列せず。午後、配置教育、総合兵器額、第四回弾火薬庫装置』〕。 == 概要 == === 建造経緯 === 日露戦争後の1906年(明治39年)、イギリスが弩級戦艦ドレッドノート」を就役させると、列強各国の間で建艦競争が勃発した。弩級戦艦はすぐに超弩級戦艦へ進化し、日本海軍も金剛型巡洋戦艦1番艦「金剛」をイギリスに発注し、ヴィッカース社の指導・支援の下その同型艦を国産で建造することでイギリスより新たな技術を学ぶ事に成功した。扶桑型戦艦は日本海軍最初の超弩級戦艦である。 本艦は「第三号戦艦」として1912年(明治45年)3月11日に呉海軍工廠で起工〔#艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.2『扶桑|戰艦|長(米)192.02|幅(米)28.68|喫水(米)8.69|排水量(噸)(基準)29,330|速力(節)22.5|短艇數13|建造所 呉工廠|起工年月日 明治45-3-11|進水年月日 大正3-3-28|竣工年月日 大正4-11-8|主要兵装 大砲36c/m…12 15c/m…16 12.7c/m高角8|發射管2|探照燈8|機械 種類「タルビン」 數4|罐 種類艦本式 數6|推進器數4|馬力40,000』〕。1914年(大正3年)3月28日に第三号戦艦は扶桑と命名〔。伏見宮博恭王立会いのもと進水〔「軍艦扶桑進水式に関する件(3)」p.59〕〔。同日附で戦艦に類別される〔#達大正3年4月p.3『達第五十八號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「摂津」ノ次ニ「扶桑」ヲ加フ 大正三年三月二十八日 海軍大臣 男爵 斎藤實』〕。1915年(大正4年)11月8日に竣工した〔「軍艦扶桑製造の件(2)」p.4〕〔。3万t級の巨艦をドックで建造することは、世界初の試みであった〔#歴群30扶桑型p.122〕。ドック方式の進水式は船台進水より派手さがないため、「扶桑」の場合は圧縮空気で紙吹雪を飛ばしている〔#歴群30扶桑型p.123〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「扶桑 (戦艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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